『不徹底な』映画好きの独り言

映画とお笑いについて考察していくブログです!!

映画『羅生門』考察! 〜ハリウッドでドラマ化されるほどの名作をもう一度考えてみよう〜 #5

お久しぶりです、ダイスケです!

今回は、先日スピルバーグ監督によってアメリカでテレビドラマ化が決定した

羅生門について考察していきたいと思います!

 

羅生門 デジタル完全版
 

 

この作品は芥川龍之介の小説『羅生門』と『藪の中』を原作とし、

戦後間もない1950年に日本で公開された映画で、日本映画としては初のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞するほどの名作として知られています。

監督は『七人の侍』、『隠し砦の三悪人』などでも知られる黒澤明

主演は彼の作品に毎作品出演していた良きパートナー、三船敏郎です。

また、杣売役で出演した志村喬も黒澤映画に名脇役として毎回出演されていました。

 

 あらすじ

平安時代のとある薮の中。盗賊、多襄丸が昼寝をしていると、侍夫婦が通りかかった。妻に目を付けた多襄丸は、夫をだまして縛り上げ、夫の目の前で妻を強姦する。しばらく後、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊の姿はなかった。 --物語は、この殺人事件をめぐり、目撃者の杣売(志村喬)と旅法師(千秋実)、捕らえられた盗賊(三船敏郎)と侍の妻(京マチ子)、それに巫女により呼び出された、死んだ侍の霊の証言により構成される。ところが事件の顛末は、証言者によってくい違い、結局どれが真実なのかわからない。盗賊によると、女がどちらか生き残った方に付いていくと言うので夫と対決し、彼を倒したが女は消えていたと言い、妻は妻で、盗賊に身を任せた自分に対する夫の蔑みの目に絶えられず、錯乱して自分を殺してくれと短刀を夫に差し出したが、気が付いたら短刀は夫の胸に突き刺さっていたと告白。そして夫の霊は、妻が盗賊に、彼に付いていく代わりに夫を殺してくれと頼むのを聞いて絶望し、自分で自分の胸に短刀を刺したが、意識が薄れていく中で誰かが胸から短刀を引き抜くのを感じながら、息絶えたと語った。 役所での審問の後、羅生門の下で雨宿りをしている杣売と旅法師は、同じく雨宿りをしていた下人(上田吉二郎)に事件について語る。下人は、短刀を盗んだのは杣売だろうとなじり、羅生門に捨てられていた赤ん坊の衣服を剥ぎ取ると行ってしまった。呆然とたたずむ杣売と法師。杣売は、赤ん坊を引き取って育てるという。法師が彼の行為に一縷の希望を見出し、映画は終わる。

羅生門(1950) | 映画-Movie Walker

 

登場人物の主張 

多襄丸:侍の妻に欲情し、彼女を自分のものにするために侍と正々堂々戦い、激闘の末に侍を殺した。しかし、その決闘の最中に侍の妻はその場から逃げており、短刀の行方も知らないと述べる。

 

:彼の霊によると、妻は多襄丸に辱められた後、彼に取り込まれ、一緒に行く代わりに私を殺すように求めた。しかし、その浅ましい態度に流石の多襄丸も呆れ果て、女を生かすか殺すか夫のお前が決めて良いと私に申し出た。それを聞いた妻は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された私は無念のあまり、妻の短刀で自害した。そして私が死んだ後に何者かが現れ、短刀を引き抜いたが、それは誰かわからないと答える。

 

侍の妻:多襄丸は私を犯した後、夫を殺さずに逃げたという。私は夫を助けようとするが、目の前で多襄丸に身体を許した私に夫は軽蔑の眼差しを向け、その目についに耐えられなくなった私は自らを殺すように夫に懇願した。そのまま気絶してしまい目が覚めると、夫には短刀が刺さって死んでおり、私は後を追って死のうとしたが死ねなかったと証言した。

 

杣売:多襄丸は強姦の後、侍の妻に惚れてしまい夫婦となることを懇願したが、彼女はその申し出を断り夫の縄を解いた。ところが、夫は辱めを受けた妻に対して、武士の妻として自害するように迫った。すると彼女は突然狂ったように笑いだし、男たちの自分勝手な言い分を非難し、夫と多襄丸を殺し合わせる。戦に慣れない2人はへっぴり腰で無様に斬り合い、ようやく多襄丸が夫を殺すに至ったが、その間に妻は逃げていた。

しかし、最終的に自分が現場にあった刀を盗んだことが下人にバレる。

 

 

以上のように、4人が自分の都合のいいように話を歪曲させて述べるのです。

 

信用できない人間と世の中 〜ニヒリズム〜

上で述べたように、四者四様の食い違う証言がこの映画のハイライトになっています。

そして、この様子をニヒリズムであると考えることができます。

それではまず、ニヒリズムの意味を確認しておきましょう。

 

虚無主義。
すべての事象の根底に虚無を見いだし、何物も真に存在せず、また認識もできないとする立場。

ニヒリズムとは - コトバンク

 

上でも述べているように、『羅生門』は舞台を平安時代の乱世と設定し、

人々のすさんだ精神と人間同士が信じ合えなくなっている様を効果的に描いています。

それぞれが自分の虚栄のために真実とはかけ離れたことを述べ、

しまいには人間不信となってしまいます。

 

原作者の芥川龍之介ならびに、監督の黒澤明は

人間の何をしでかすか分からないという曖昧さ、そして虚無さを乱世の平安という時代背景を借用しながら浮き彫りにしたと考えられます。

 

それらを受け入れる人間の寛容さ 〜ヒューマニズム〜

ヒューマニズムとは、

 

人間中心、人間尊重を基調とする思想態度。

ヒューマニズムとは - コトバンク

 

という意味を持っています。

このヒューマニズムという概念を元に考察してみましょう。

 

 

多襄丸、侍、そして侍の妻は自己保身のために虚偽の事実を述べる。

そしてそれを聞いた事件の目撃者、杣売は人間不信になる。

だがしかし、その杣売さえも嘘をついていた。。。

 

映画のラストで、羅生門に放置された赤ん坊を杣売が持って帰ろうとするシーンがある。

「わしのところには子どもが6人いる。しかし、6人育てるも7人育てるも同じ苦労だ」

と杣売は述べるが、旅法師は、虚偽の証言をした杣売を信用せず、咎めた。

しかし、杣売は説得し、旅法師は人間を信用できなくなった自分自身を恥じるのだった。

そして、雨が止み太陽が出たところで二人は羅生門を後にするところで、映画は終わる。

 

法師でありながら、人間を信用できなくなってしまうというところは、それだけ強い人間への不信感を抱いてしまった。

また、酷い場面に遭遇してしまったということが理解できる。

 

加えて、旅法師が自分を恥じ、杣売という人間を受け入れたことから、

旅法師の業の肯定が伺える。

 

業の肯定とは、落語家の立川談志が提唱した理論で、

簡単に説明すると、人間の本質や性質を理解し受け入れなければならないというもので、

それらを発散しなければ、秩序のある世の中で生きることはできない。

よって、人間のしょうもなさ、未熟さ、傲慢さなどは認めるべきだということです。

落語に出でくる人たちは、皆このような性質、すなわち業を持っています。

人間が持つ業を笑いに変えていくことで、業を肯定するのです。

 

少し脱線しましたが、旅法師は最終的に杣売の業を肯定し、

 

全ての人間は長所短所というものを持っているということではなく、

そうした性質を元来持っており、尊重しなければならない。

ということに気付かされたのです。

 

こうしたヒューマニズムもこの映画を考える上で、非常に重要なファクターとなっているのではないでしょうか。

 

 まとめ

『羅生門』はニヒリズムとヒューマニズムというかなりかけ離れた人間に対する考え方を同時に描いています。

しかし、それらが同居してしまうぐらいに、人間というのは難しく単純ではない存在であるというメッセージだと受け取ることができるのではないでしょうか。

そして、このメッセージはいつでもどこでも前景化してしまう問題です。平安の乱世、第二次大戦後、そして国際情勢の揺れる21世紀など、全てに当てはまります。

こうした理由が、再びリメイクとして製作される要因になってるのではないでしょうか。

 

 

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