映画『時計じかけのオレンジ』考察! 〜フロイト心理学とディストピア論〜 #6
みなさんいかがお過ごしでしょうか?ダイスケです!
今回はスタンリー・キューブリック監督の名作
『時計じかけのオレンジ』
について考察していきます!
この作品は1971年に公開され、
監督を務めたのが、『2001年宇宙の旅』『ロリータ』『シャイニング』を製作したことでも知られるスタンリー・キューブリック
ということでもよく知られています。
あらすじ
ロンドンの都市。秩序は乱れ、治安状態は悪化し、性道徳は退廃の極にあった。そして町には夜な夜な少年ギャングの群れが横行していた。これは、そんな少年のひとり、〈強姦と超暴力とベートーベン〉だけに生きがいを求めるアレックスの物語である。15歳のアレックス(マルコム・マクドウェル)を首領とするディム(ウォーレン・クラーク)とジョージー(ジェームズ・マーカス)の一味は、その夜も街で暴れ廻っていた。
あらすじは非常に複雑なので全て知りたい方は続きもお読みください。
まず手始めとして、酒ビン片手に橋の下で酔いつぶれている1人の老いた浮浪者を、ステッキやコン棒で殴ったり蹴ったりして袋だたきにした。暴虐の限りをつくして爽快になったアレックスたちは、別の獲物を求めて去ってゆく。荒れはてたカジノの舞台では、ライバルの非行少年グループの一団が、1人の女性の衣服をはぎとり暴行しようとしていた。そこへアレックス一味が殴り込みをかけ、大乱闘のあげく、敵の首領に傷を負わせた。さらにアレックス一味は、スポーツカーを駆って突っ走る。やがて郊外の邸宅にやってきた彼らは、覆面をつけて、ずかずかと押し入り、暴力活動を開始した。主人の作家アレクサンダー(パトリック・マギー)の眼の前で奥さんの衣服を切り裂き、凌辱に及んだ。こうして一晩は終わり、アレックスは大好きなベートーベンの第九交響曲を聴きながら幸福な眠りにつくのだった。そんなある日、ささいなことから部下のディムとジョージーが反抗した。彼らは、猫をいっぱい飼っている老婆の家に押し入った時、アレックスを裏切り警察に売ってしまった。刑務所でのアレックスは、聖書を読む模範囚であった。その頃、政府は凶悪な犯罪者の人格を人工的に改造する治療法を行なうことになっていた。アレックスはその第1号に選ばれたのだ。それは特殊な覚醒剤を注射した上で衝撃的なフィルムを見せ、そのショックから生理的に暴力やセックスが耐えられないような肉体に改造するといった方法だった。連日にわたる治療の結果を公開実験するショウの日がやってきた。アレックスが舞台に上ると、1人の男が彼に乱暴を働いた。殴り返そうとしたアレックスに吐き気がもよおした。セックスに対しても、その上、音楽を聴いただけでも同様に激しい吐き気が襲った。おとなしい、無害な人間に変わった彼は釈放された。家に帰ると、かつて彼が使っていた部屋にはジョーという得体の知れない男が入りこんでいたため、家を出るしかなかった。町をさまよっていると2人の警官に捕まった。その2人は、昔、アレックスを裏切ったディムとジョージーだった。アレックスに恨みを持つ2人は、アレックスを森の中に連れ込み、暴行した。その夜、瀕死のアレックスは、一軒の家にたどり着いた。それは、昔アレックス一味に乱暴されたアレクサンダーの家だったのだ。彼はあのいまわしい事件のため妻は自殺し、自分も半身不随となってしまった。アレクサンダーは一計を案じ、自分が属している反政府運動の道具に彼を使おうというのだ。翌朝、部屋に閉じ込められたアレックスは第九交響曲の響きで目をさました。彼は拒絶反応で狂い、窓から飛びおりる。アレクサンダーの狙いは、アレックスを自殺に追いやり、私的な報復を果たすと同時に、人格矯正法という非人間的な行為を行なった政府を攻撃して失脚させることだった。しかし、アレックスは一命を取りとめ、アレクサンダーは逮捕された。失脚を恐れた内務大臣(アンソニー・シャープ)は、アレックスを元どおりの人間に戻すと発表した。やがてアレックスは、セックスとベートーベンの第九交響曲に再び歓びを見い出した。
フロイト心理学を用いての分析
主人公アレックスはルドヴィコ療法と呼ばれる人格矯正法によって、暴行や強姦に強い拒否反応を示すように矯正された。
しかし、これにより自分が一方的に侮辱されても反撃できず、そのようなマインドになった瞬間に吐き気を催すようになった。
また、目の前に裸の女性が現れても、欲情せずに吐き気を催してしまう体になった。
この彼の反応は、通常の人間のものとは到底言えないものであり、極めて不自然である。
この状態をフロイト心理学の観点から、超自我が強すぎると言えるでしょう。
超自我とはいわば道徳的禁止的役割をになうものであり、自らを律する装置です。
詳しく知りたい方は、
道徳規範を遵守されるこの機関を”スーパー超自我”とも言えるほどに異常に強くさせられてしまったために、
彼は人間が生まれつき持っている無意識の本能的衝動、欲求など精神的エネルギーの源である、イド(エス)を失ってしまい、
まともな人間らしい行動ができなくなり、
もっと言うと、人間ではなくなってしまったのです。。。
ディストピア社会
以上のように、アレックスは欲望することが許されない体になってしまった。
しかし、これを裏返せば、欲望に駆り立てられた犯罪(殺人や強姦など)が絶対に起きない社会の成立を意味します。
なぜなら、そのような犯罪をした者たちは刑務所で人格が矯正され、
それは犯罪者がゼロになるまで永遠に行われるからです。
このような社会なら絶対の安全が確保され、平和な暮らしができること間違いなしでしょう。
しかしながら、こうした人格矯正はいわば殺害と同然ではないでしょうか。
たしかに、欲望を行動に移し、それが結果として人を傷つけたり、いきすぎたものであれば断罪されるべきです。
しかし、”スーパー超自我”によって欲望すること自体を抑えられてしまうと、人間として機能しなくなることを意味します。
というのも、欲望は上でも述べたように、人間が生まれつき備えている装置であり、
人間たらしめている非常に重要なファクターだからです。
要するに、抑圧の究極は感情の断絶、殺害。人間としてはもはや死んだと同然で最終的には自殺願望を掻き立てるのです。
こんな社会が誕生したら何よりも最悪だと思いませんか?
まとめ
フロイト心理学とディストピア社会という観点で分析してみました。
心理学という点では、人間の精神の複雑さについて考えました。
超自我は自分を倫理的に律するので、一見好ましい要素だと感じられますが、
いきすぎるとその他の人間の精神を構成する機能を蝕み、かえって悪い結果をもたらしてしまいます。
人間の精神構造の難しさがよくお分かりいただけたのではないでしょうか。
ディストピアという点では、以前も『トゥルーマン・ショー』の考察でも触れましたが、
今回は全く違った形で扱いました。
犯罪(者)のない世界を作るということは非常に理想的かもしれませんが、
欲望しないように人間を洗脳するということは莫大に弊害を生み、
かえってマイナスの結果になってしまいます。
ディストピアという観点からの考察は、『トゥルーマン・ショー』の時と内容こそは違えど、
安全と危険の表裏一体性という結論は全く一緒になりました。
以上、長々と考察してきましたが、最後までご覧いただきありがとうございました。