『不徹底な』映画好きの独り言

映画とお笑いについて考察していくブログです!!

R-1ぐらんぷり2019考察! 〜全出場者のネタ批評、採点〜#8

こんにちは、ダイスケです!

 

今回は3月10日に開催された

R-1ぐらんぷり2019について考察していきたいと思います!

 

霜降り明星の粗品さんM-1との二冠を果たし、幕を閉じた今回の大会ですが、

出場者の皆さんのネタが非常に素晴らしかった故に、

私自身、思ったことが様々ありますので、

このブログに綴ろうと思いました。

 

内容としては、

出場者のネタを紐解いて数値化し、良かった点と悪かった点などを分析していきます。

完全な素人である私が、こんなことをするのはおこがましすぎるということ、

大変承知してはおりますが、お笑いに対するいきすぎた愛情の副作用ということを

ご理解願います。。。

  

Aブロック

チョコレートプラネット松尾さん 85

一休さんを呼んだらIKKOさんが出てきて、そこからは似すぎのIKKOさんのモノマネで笑わせていくというネタでした。

 

まず思ったことは、やはりお客さんの質でした。

少しオーバーに笑っているな、リアクションしているなというのは、

松尾さんが舞台脇から登場した瞬間に感じました。

その違和感は、その次のクロスバー直撃前野さんの時に確信に変わりました。。。

 

ネタに話を変えますが、

チョコプラ松尾さんは、言わずもがな昨年からメディアの露出が非常に多くなっている芸人さんで、

IKKOさんのモノマネを披露する機会がとても多かったです。

なので、完全に手の内がバレており、ネタバレしていました。

 

屏風の虎にメイクをするという流れになるのですが、

ボケ数があまり多くなかったように思います。

 

終盤はボケを乱発するのですが、あまり精度が高くなかったように思います。

イスから転げ落ちて、カツラが取れるというボケがありましたが、

これは「とんねるずのみなさんのおかげでした」の人気コーナー『全落』のくだりを真似したものでした。

 

ここで注目したいのは、『全落』での本家IKKOさんが半端なく面白いということです。

『全落』はドッキリ企画ですので、当然何の予定調和もないハプニングであり、

この面白さには絶対勝てないのです。

何も考えず、ただドッキリやハプニングにリアクションを取る

出川哲朗さんやみやぞんさんに皆さんは大爆笑していると思います。

天然のものに人工はやはり勝てないのです。

 

このように、本家が面白すぎるあまり、本家オリジナルに勝てない

すなわち、天然>人工という図式が松尾さんのネタにも生まれ、

大きな笑い、面白さ、審査員の評価には繋がらなかったのではないかと思いました。

 

 

 

クロスバー直撃前野悠介さん 87

通過したものを当ててもらう動体視力検査という設定で、自作の小道具を登場させまくり、

終盤はそれらをメルカリに出品した時のユーザーからの謎のコメントを紹介するというネタでした。

 

本番中にMCの宮迫さんもおっしゃっていましたが、

ネタの構成が、おもしろ小道具の紹介メルカリのコメント二段構えになっていました。

その部分は非常に画期的だったのですが、全体を通してみると少し有機性に欠けていたと思います。

 

どうしても小道具のおもしろさを出したい分、ただただ連発しているだけで、

小道具の発表会で収まり、全体のつながりが見えてきませんでした。

確かに、印鑑を入れるところ、朱肉が入っているところなど、

「被せ」も見られたのですが、つながりは薄かったように思います。

なので、会場もかなり受けていたメルカリのコメントのパートをもっと増やし、

そこで、小道具の紹介を完全にフリにしてしまい、メルカリのコメントで全てを回収するような大技があれば、

有機性がもっと強まり、点と点が繋がるような重厚なネタに仕上がったのではないかと思いました。

 

 

 

こがけんさん 93

歌が上手くなるマイクを買ったけど、思っていた歌の上手さと違う。。。というネタでした。

 

僕はこの大会の中で2番目に面白いと思ったネタでした。

 

先ほどのクロスバー直撃前野さんのネタは二段構えになっていましたが、

こがけんさんのネタは三段構えになっていました。

マイクのツマミが「強」になっているパート、

「弱」になっているパート、

そしてマイクが生活音をも拾ってしまうというパートの3つです。

なので、たとえ「洋楽風の歌のうまさ」という一つのアイデアが軸になっていようとと、

お客さんを飽きさせないようなネタになっていたと思います。

最初のドラゴンボールの主題歌からグッとお客さんをツカミ、

オチのNEWS ZEROも完璧にハマっていたと思います。

 

こがけんさんのこのネタは、

どの曲でも洋楽風の歌い方になってしまうという特技から始まったと思われます。

6、7年前でしょうか、「人志松本の〇〇な話」という番組で、

売れっ子芸人さんたちが今ハマっている、まだ売れていない芸人さんたちを紹介するコーナーがあったのですが、

そこで、千原ジュニアさんがこがけんさんを紹介し、このネタをしていました。

その時は、こがけんさんがいわばボケという形でひたすら洋楽風に歌い続け、

スタジオにいた芸人さんたちがツッコミやガヤを入れて笑いになっていました。

 

しかし今回は、ツッコミ役をこがけんさんが行い、マイク自体がボケという構図となっていて、

特技をネタに落とし込むという作業にかなりの努力、創意工夫が見られました。

やはり、さすがプロの芸人さんだなと大変感心いたしました。

 

 

 

セルライトスパ大須賀さん 91

抱っこしている赤ちゃんを起こさないように小声で行う漫談というネタでした。

 

個人的には審査員からのかなりの高評価に少しビックリしました。

 

冒頭の「寝ましたー」で完璧にツカミました。

下敷きは高すぎるという、「あるある」もとても新鮮で面白かったです。

しかし、その直前の

ボールペンとシャーペンは高い技術を駆使しているにも関わらず、非常に安いというあるあるや、

種無しブドウに種が入ってる、スーパーカップなどは私自身、どこかで聞いたことのある、あるあるで、

あまり面白さとして伝わってこなかった部分があります。

 

ですが、審査員長の桂文枝さんがおっしゃっていたように、

小声で客に聞かすという手法は確かに革新的だったように思います。

大須賀さん本人がおっしゃっていましたが、

彼自身、スリムクラブさんのたっぷり間をとる漫才の影響を強く受けているそうです。

やはり、面白い手本に少しアレンジを加えて、新鮮味を出すことに成功したということは才能がなければできません。

 

お笑い、そしてネタの歴史は長く、画期的なネタの手法はほとんど出尽くされたのではないかと感じてしまうくらい多く世に出てきました。

しかし、大須賀さんは「間をたっぷり取ること」「小声」という見せ方を足して、

全く新しい手法を編み出したのです。

 

ネタの手法が出尽くし、発明が難しくなっている現代のお笑いにおいて、

やはり、こうした新しいネタは大変高く評価されるのだなと、私自身気づかされ、

審査員(プロの芸人)たちがこのネタを評価したことにも合点がいきました。

 

 

Bブロック 

おいでやす小田さん 91

成功者となり全てを得たのだが、堅苦しい日常がつまらないと嘆き、最終的には庶民時代の幸せな思い出たちを叫びまくるというネタでした。

 

小田さんの最大の特徴である「大声」で叫びまくるネタで、私自身その熱量演技に大笑いしました。

声を張る系のネタはウケだすと会場のお客さんと一体になって、地響きにも似た大爆笑を生むことができます。

しかし、会場との温度差が生まれてしまうと、取り返しのないことになってしまいます。

 

このネタでそこまでの温度差が生まれることはなかったですが、

そこまでウケきらなかったと思いました。

 

お笑い番組やコンテストのお客さんは女性が圧倒的に多いです。

やはり、番組側は視聴率が欲しいので、明るい雰囲気を出す努力をします。

ですので、女性の声高な笑い声が絶対的に必要なのです。

 

そうなると、小田さんののたうち回って絶叫するネタは少し女性には敬遠される傾向があるのかなと思います。

率直にいうと、品に欠けるネタになり、女性がほとんどの会場ではそこまで盛り上がらないということです。

 

しかしながら、金持ちあるあるから庶民あるあるへと徐々に移っていくところなど、

大声一辺倒ではなく構成の妙が垣間見えて

非常にクオリティの高いネタだったと思いました。

個人的には、もう一本ネタを見てみたい芸人さんでした。

 

 

 

霜降り明星粗品さん 92

おなじみのフリップ芸でした。

 

昔からある完全王道のフリップネタにも関わらず、爆笑をかっさらっていました。

というのも、ネタの基本である

ボケ数テンポ、そしてが完璧でしたので、当たり前の結果だと思います。

 

序盤は、お客さんをツカむために、意図的にフリップ一枚一枚に時間をかけていましたが、

中盤以降はスピードアップして最後まで駆け抜けていきました。

 

また、要所要所であえて質の低いモノマネを入れていくことで

テンポを生み出すことに成功していました。

ボケの質をと、

時間をと織り交ぜることで抑揚が生まれるのです。

という波においては、

」のおかげで「」が通常以上に大きく見えるのです。

野球でいうところの、100kmのカーブを投げた後の140kmの直球がものすごく速く見えるのと同じで、

こうした錯覚を粗品さんは効果的に用いていました。

 

このような笑いもしくはネタの基本が完璧に徹底されていれば、

目新しい手法など必要ない、

そして、王道に勝るものはないということを改めて痛感いたしました。

 

 

 

ルシファー吉岡さん 88

男子校の5年生(高校2年生)のクラスの担任の先生が、次年度から共学になることを生徒たちに伝えるというネタでした。

 

演技力はおそらく全出場者の中で一番高かったように思います。

しかし、そこまでお客さんにハマってなかったかなという印象です。

 

先ほども言ったように、R-1ぐらんぷりはコンテストである前に、

テレビ番組ですので、お客さんは女性がほとんどです。

なので、ルシファー吉岡さんの真骨頂ではあるのですが、

下ネタ的要素が含まれたネタは少し厳しいように思います。

 

ネタの内容に触れますと、少し展開が読みやすかったかもしれません。

「生徒たちは5年生」、「今年の4月から」という情報だけであれ、6年生は?という疑問がすぐに出てきたのですが、

3つくらいのくだりを挟んで、そこに触れていました。

少々意外性に欠ける回収となっていて、もったいないなと思ったりもしました。

 

もう一つ盛り上がりに欠けた要因を挙げるとすると、

やはり、理解するのが難しいタイプのネタだったということでしょうか。

ルシファー吉岡さんのネタ(おそらく全て)は、架空の相手との会話でできています。

ですので、お客さんが想像力を働かせて

話し相手がするであろう返しや反応を脳内で補填しながら見なくてはなりません。

 

このようなコンテストの決勝は番組側が観覧客を募集し、抽選で選ばれた方たちのみが足を運びます。

なので、お笑いライブに日頃から行っている人たちだけでなく、ライト層の方たちも集まります。

厳密にいうと、ライト層の方が圧倒的に多いです。

ですから、お客さんたちがネタのポテンシャルを最大限に理解できず、

会場が爆笑に至らないという現象が起きてしまうのです。

 

ルシファー吉岡さんは今回を含めて4回も決勝に進出しています。

しかし、いまだにファイナルステージに進めていません。

この理由も、今述べたとおりだと思います。

準決勝はお笑いマニアのお客さんしか来ません。

ですので、ルシファー吉岡さんのネタを完全に理解し、物語についていき、笑います。

そして、決勝に進出することができます。

ただ、決勝はそのようなお客さんばかりではありませんので、準決勝のようにはウケないのです。

 

 

 

マツモトクラブさん 90

久しぶりに会った友人が連れて犬がウソを見分けられる能力を持っていて、それに揺さぶられていくというネタでした。

 

マツモトクラブさんのネタはいつもそうですが、

素晴らしい映画や演劇などを見た時のような、感動すら覚えます。

その反面、爆発的な笑いまでは起こらないというのが欠点で、

今回もそのケースに当てはまる形となってしまいました。

 

ネタの構成としては、

自分のウソだけに反応されると思いきや、

飼い主である友人のウソにまで反応し始めるという「裏切り」や、

飼い主の前に付き合っていた彼女は犬の散歩もしてくれた優しい子だったというところに犬が反応する「山場」

しっかり配置されていて、大変素晴らしかったと思います。

 

しかし、「間」の部分で少し違和感を覚えてしまいました。

3分という短い時間の中で、多くのセリフ、そして笑いを入れているため、

かなり間が短かったかなと思います。

コントというネタのタイプにおいて、間を詰めるというのは、ちょっと不自然さを覚えるというか、

どうなんだろうと私自身思ってしまいました。

 

また、録音された言葉との会話というネタの性質上しょうがないのですが、間がすでに決まってしまっています。

すなわち、お客さんが笑うタイミングも含めて、全ての「間」があらかじめ定められているのです。

なので、お客さんの笑いが少しでも長いと、セリフと笑い声が被ってしまったり

笑いがノビなかったりという弊害が起こってしまいます。

こうして最終的には、閉塞感にも似た雰囲気が生まれて、大爆笑に至らなくなってしまうのです。

 

やはり、笑いは生き物であり、私たちもハプニングのようなものをどこかで期待してしまいます。

なので、このような完全予定調和の一人コントというものには、

限界があるのかなと思わされました。

 

 

Cブロック

だーりんず松本りんすさん 95

カツラ芸でした。

 

私の中では今大会で一番面白かったネタでした。

ハゲネタの亜種としてのカツラ芸で、かなり新鮮味がありました。

というか初めて見ました。

 

ネタの内容としては、カツラにまつわるショートコントやモノマネ、手品をメインにやりながら、

ブリッジとして、カツラあるあるや「ヘリコプターを付けるとしたらおでこです」といった小話を挟み、笑いを取っていました。

構成も含めて、カツラをネタにするということ以外は、別段新しいことはしていなかったように思います。

 

しかし、一番面白かったですし、会場も一番沸いていたのではないかと思います。

やはり、ハゲネタは必ず爆笑を生むなあと感じましたし、

面白いに決まっているとも思いました。

 

Cグループでのウケが断トツだったにも関わらず、何人かの審査員からは票が入らなかった理由もここにあると思います。

ハゲ、カツラをネタにするというのは面白いに決まっている。

だから、もっと工夫次第で面白くできるはずだ。

このネタに関しては、ウケ量を本当の面白さとして額面通りに受け取ってはいけない。

というように、ウケ量に対して、ある程度の「引き算」が行われたのではないかと思います。

 

でも私は、あそこまで会場を沸かせて、空気を掴んだら、

もう手放しで評価してもいいのではないかと思いました。。。

 

 

 

河邑ミクさん 89

大阪に引っ越すことになり、大阪ってこういうところなのと特徴を列挙していくのですが、それがdisだらけ。。。というネタでした。

 

河邑ミクさんのネタは、自身の可愛さをネタの中で活かすものが多く、今回もその要素を含んでいました。

なので、先ほどからも触れている通り、女性のお客さんがメインである会場では、

嫉妬などのせいなのか分かりませんが、少し笑いが起きづらいのかもしれないです。

 

内容としては、演技が上手くて、disの質も高く、ものすごく面白いと思いました。

個人的には、「ピアノを習うという概念がない」「たこ焼きで根性焼き」というdisがツボでした。

 

加えて、ノリツッコミのくだりも非常に面白いと思いました。

ブスと言われて鏡を見てみたら可愛いやないかい、そのあとに少々時間をかけて、

「ノリツッコミって言うんだって」と嫌そうに言う場面です。

「ノリツッコミって言うんだって」というセリフ、とても面白いと思ったのですが、

会場ではあまり反応がなかったです。

またも、やっかみのせいか分かりませんが、このシーンはもっとウケてもいいし、

ウケないといけないと思いました。

河邑ミクさん本人も、おそらくここを山場の一つとして考えたと思います。

その分、ここで爆発しなかったことが、ネタ全体の盛り上がりに欠けた要因になったと思われます。

もし、ここが爆発したら、会場の空気をグッと掴んだと思いますし、

後半のdisも何割にも増してウケていたのではないかと思います。

 

最近の女性芸人さんたちは、見た目の醜さを前面にするネタや、臆せず体を張る傾向があり、

そしてそれがウケるという世間の風潮があります。

しかし、河邑ミクさんはそれに反して、可愛さをネタに落とし込んで笑いを取っています。

私自身、ブスネタやブスいじりはもう飽き飽きしていますし、

なにより品がないのであまり好みではありません。

ですので、これから河邑ミクさんを応援していきたいと思いますし、

最近の風潮を変えていっていただきたいと切に願っています。

 

 

 

三浦マイルドさん 90

広島弁漢字ドリルの例文というフリップ芸でした。

 

三浦マイルドさんのネタはフリップが多いですが、

いつもテンポがよく、テンションが高く、熱がこもっていて

非常に面白いです。

実際、2013年のR-1で優勝を果たしていますし、

かなり評価もされている芸人さんです。

 

ネタの内容は、

序盤は、広島弁そのものの柄の悪さから来る面白さ、

そして、三浦マイルドさんの例文の言い方の面白さで笑わせていくのですが、

後半にかけては、例文の面白さを前面に押し出していくという

構成の妙を感じるものでした。

また、終盤は何回か前半の例文をカブせていき、

後半にかけて面白くなっていく理想のネタの形になっていました。

 

個人的には、「東南アジア」「校長先生」どこかで聞いたことのあるフレーズ、

「宗教色強めの幼稚園出てるから人間ができている」というボケなどはものすごく面白いと思いましたが、

少し、タブーというなんというかギリギリを攻めたボケだったので、

笑いづらかったのかなと思います。

 

フリップネタはやっていることが単純になりがちで、爆発しにくいのですが、

このネタはかなりウケていたほうだと思います。

 

なので、正直な話、敗因があまり見つかりません。

挙げるとすれば、途中フリップのめくりがスムーズにいかず、

動揺がこちらにまで伝わってきてしまったことでしょうか。

その瞬間はこちらもネタに入っていけなかったです。

めくりにごたついている間、アドリブでなんとか繋げていれば、

巻き返せたのかも分かりません。

 

ですが、それよりなにより、だーりんず松本りんすさんが大ウケしたことが

壁になった一番の原因なのだと思います。。。

 

 

 

岡野陽一さん 89

鶏肉を食肉加工される前のような大空に飛ばしてあげるという超サイコ的なネタでした。

 

岡野陽一さんは、巨匠時代からサイコ系のネタを得意としていて、

今回もかなり毒強め風刺強めのネタでした。

私は、このようなネタが大好きなのですが、

やはり大衆ウケはしづらいのだなと改めて痛感しました。

 

人間のエゴによって、殺され、そして加工されてしまった鳥の立場に立って、

改めて空を飛ばせてあげる、という発想。

そして、それをネタにする岡野陽一さんは本当に天才だと思いました。

 

近年、ベジタリアン(菜食主義者)やヴィーガン(完全菜食主義)などが世間的な声を強めています。

※ヴィーガン肉や魚はもちろん、卵、チーズ、バター類、はちみつ、ゼラチンなども一切食べませんし、ウールや毛皮も着ません。

彼らの多くは、動物の命の尊さに気づき、重んじて、そのような思想に至っているようです。

私自身はベジタリアンでもヴィーガンでもないですが、その思想自体は素晴らしいものであると一応肯定はしています。

 

しかし、彼らの中にその思想を他の人に押し付ける人たちがいて、

実際に批判を浴びたりもしています。

 

今回のネタは、命の尊さを伝えるネタは一見すると、菜食主義者側に立ったものだと思いますが、

私は、笑いのネタにしている点

そして、「風船を売っている人がこんな(黒い)服着てないだろ」と話し、

暗くてネガティブな印象を持たせる外見にしている点から、

菜食主義者を皮肉っているのではないかと思いました。

 

笑いは批判やある時は差別から生まれるものですので、

このような手法は「あり」だと思いますし、

私自身、このネタでとても笑いました。

ですが、マイノリティの主張も受け入れて、多様性を大切にしようという、

最近の社会の風潮の下では、このようなネタはすんなりと受け入れられるものではないのかなと感じました。

 

ただ、こうした皮肉を効かせたネタを確立している岡野陽一さんには、

たとえもし批判されたとしても、このスタイルを一生続けて欲しいなと思います。

というのも、言論の自由思想の自由というものがありますし、

それらをひっくるめて「多様性」ですから。

 

 

 

ファイナルステージ

 

セルライトスパ大須賀さん 90

ジャングルでトラに囲まれている中、小声で漫談をするというネタでした。

 

率直に言うと、1本目のネタの方が良かったかなと思いました。

赤ちゃんを抱っこしていると、なんだか楽しそうで、ほっこりした雰囲気になり、

結果として会場を暖かくできお客さんを掴みやすくなるのかなと思います。

 

このように、笑う態勢づくりが2本目の方が劣っていて、

少し落ちた印象を抱いてしまいました。

 

ですが、ネタの内容は1本目同様、とても面白かったので、

優勝の可能性も十二分にあったのではないかと思います。

現に票数は同じでしたし。。。

 

 

 

霜降り明星粗品さん 91

1本目と同じく、おなじみのフリップ芸でした。

 

ボケ数、テンポ、そして質の全てがまたも高レベルだったと思いました。

しかし、前半の、フリップの裏に「バンクシー」が描かれているというところが、

少し、会場に伝わらなかったのか、あまり反応がなかったように思います。

このくだりは後半にも被せたのですが、結果的に効果的ではなかったと言わざるを得ないと思います。

 

また、1本目でもそうだったのですが、フリップの半分もしくはそれ以上が、

すでに何年も前に披露しているネタでした。

なので、お笑いマニアやそうでなくても、ネタ番組をいつも楽しむ人たちにとってはかなりネタバレ感があったかと思います。

ですが、昨年末にM-1グランプリ優勝し、メディアへに露出がかなり増えて、

ネタを作る時間がないことを考慮すると、ある種当然のことなのかなと思います。

しかし、裏返せば、ここまで多忙を極めているのにも関わらず、

優勝してしまうなんて、粗品さんの才能は凄まじいなと思いました。

 

 

 

だーりんず松本りんすさん 92

1本目に引き続きカツラ芸でした。

 

私の中では、ファイナルステージで一番面白かったなと思いました。。。

3位に終わってしまった理由は、先ほど説明した通り、

審査員の中で、「引き算」が行われたこと。

それに加えて、カツラ芸とブリッジの漫談の両方のクオリティが1本目からは落ちたこと

ではないかと思います。

「タケコプター」みたいなボケが一個でもあれば、結果は変わっていたのかもしれません。

 

松本りんすさんはこのようなカツラ芸、カツラいじりだけではなく、

平場でのツッコミも、印象に残るワードを繰り出し、非常に鋭くて面白いので、

ぜひテレビ番組等で活躍している姿を早く見たいなと思います。

 

 

 

まとめ

今回のR-1ぐらんぷり2019は全員が面白くて、

非常にレベルが高かったように思います。

 

5年くらい前までは少し不安になるほどウケていない方もいらっしゃったので。。。

 

R-1は一人芸であればなんでもありというルールです。

なので、フリップ芸、モノマネ、一人コント、漫談など様々な手法が登場し、

芸の奥深さが存分に感じられる素晴らしい大会だと改めて思いました。

 

優勝された霜降り明星粗品さんはもちろん、

他の芸人さんたちもこれから活躍されること間違いないかと思います。

個人的には、河邑ミクさんと松本りんすさんに期待していきたいです。

 

最後に、全ての出場者のみなさま、素晴らしい大会をありがとうございました。

 

 

 

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「お笑い」に関する独り言もしていきます! 和牛さんの『ゾンビ』ネタを挙げて。。。 #7

こんにちは、ダイスケです!!

 

いつもは映画についての独り言を綴っている私ですが、

これからは漫才コントなどの「お笑い」についても

だらだらと戯言を記していきたいと思います。

 

やはりプロの芸人さんのネタは非常に芸術性が高いです。

社会的な問題を根本的なところで扱っていたり、

高い演技力で人間描写をしていたりと

映画と同じくらい考察のしがいがあると思うのです。

 

例えば、

昨年、2018年のM-1グランプリでの

和牛さんの1本目のネタ『ゾンビ』は非常に興味深い内容でした。

自分がもしゾンビになってしまったら殺してくれという流れで、

人間とゾンビの境界線はどこなのかというが大きなテーマだったと思います。 

 

このテーマを噛み砕いてみると、生と死の境はどこなのか?という問題が浮かび上がり、

すなわち、脳死や安楽死についても考えさせられることになります。

もっと根本的に捉えて、二項対立へのアンチテーゼと考えてみると、

男と女という二項対立の脱構築(解体)=LGBTQ

といった考察も可能なのです。

境界線は決定不可能であり、それに関する現代の問題を考える機会を

「ネタ」は提供してくれるのです。

 

非常に考察する価値の高い「お笑い」をこれから不定期で考えていきますので、

どうかよろしくお願い致します!

 

 

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映画『時計じかけのオレンジ』考察! 〜フロイト心理学とディストピア論〜 #6

みなさんいかがお過ごしでしょうか?ダイスケです!

今回はスタンリー・キューブリック監督の名作

『時計じかけのオレンジ』

について考察していきます!

 

時計じかけのオレンジ (字幕版)
 

 

この作品は1971年に公開され、

監督を務めたのが、『2001年宇宙の旅』『ロリータ』『シャイニング』を製作したことでも知られるスタンリー・キューブリック

ということでもよく知られています。

 

  •  あらすじ
  • フロイト心理学を用いての分析
  • ディストピア社会
  • まとめ

 あらすじ

ロンドンの都市。秩序は乱れ、治安状態は悪化し、性道徳は退廃の極にあった。そして町には夜な夜な少年ギャングの群れが横行していた。これは、そんな少年のひとり、〈強姦と超暴力とベートーベン〉だけに生きがいを求めるアレックスの物語である。15歳のアレックス(マルコム・マクドウェル)を首領とするディム(ウォーレン・クラーク)とジョージー(ジェームズ・マーカス)の一味は、その夜も街で暴れ廻っていた。

 

あらすじは非常に複雑なので全て知りたい方は続きもお読みください。

 

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映画『羅生門』考察! 〜ハリウッドでドラマ化されるほどの名作をもう一度考えてみよう〜 #5

お久しぶりです、ダイスケです!

今回は、先日スピルバーグ監督によってアメリカでテレビドラマ化が決定した

羅生門について考察していきたいと思います!

 

羅生門 デジタル完全版
 

 

この作品は芥川龍之介の小説『羅生門』と『藪の中』を原作とし、

戦後間もない1950年に日本で公開された映画で、日本映画としては初のヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞するほどの名作として知られています。

監督は『七人の侍』、『隠し砦の三悪人』などでも知られる黒澤明

主演は彼の作品に毎作品出演していた良きパートナー、三船敏郎です。

また、杣売役で出演した志村喬も黒澤映画に名脇役として毎回出演されていました。

 

 あらすじ

平安時代のとある薮の中。盗賊、多襄丸が昼寝をしていると、侍夫婦が通りかかった。妻に目を付けた多襄丸は、夫をだまして縛り上げ、夫の目の前で妻を強姦する。しばらく後、現場には夫の死体が残され、妻と盗賊の姿はなかった。 --物語は、この殺人事件をめぐり、目撃者の杣売(志村喬)と旅法師(千秋実)、捕らえられた盗賊(三船敏郎)と侍の妻(京マチ子)、それに巫女により呼び出された、死んだ侍の霊の証言により構成される。ところが事件の顛末は、証言者によってくい違い、結局どれが真実なのかわからない。盗賊によると、女がどちらか生き残った方に付いていくと言うので夫と対決し、彼を倒したが女は消えていたと言い、妻は妻で、盗賊に身を任せた自分に対する夫の蔑みの目に絶えられず、錯乱して自分を殺してくれと短刀を夫に差し出したが、気が付いたら短刀は夫の胸に突き刺さっていたと告白。そして夫の霊は、妻が盗賊に、彼に付いていく代わりに夫を殺してくれと頼むのを聞いて絶望し、自分で自分の胸に短刀を刺したが、意識が薄れていく中で誰かが胸から短刀を引き抜くのを感じながら、息絶えたと語った。 役所での審問の後、羅生門の下で雨宿りをしている杣売と旅法師は、同じく雨宿りをしていた下人(上田吉二郎)に事件について語る。下人は、短刀を盗んだのは杣売だろうとなじり、羅生門に捨てられていた赤ん坊の衣服を剥ぎ取ると行ってしまった。呆然とたたずむ杣売と法師。杣売は、赤ん坊を引き取って育てるという。法師が彼の行為に一縷の希望を見出し、映画は終わる。

羅生門(1950) | 映画-Movie Walker

 

登場人物の主張 

多襄丸:侍の妻に欲情し、彼女を自分のものにするために侍と正々堂々戦い、激闘の末に侍を殺した。しかし、その決闘の最中に侍の妻はその場から逃げており、短刀の行方も知らないと述べる。

 

:彼の霊によると、妻は多襄丸に辱められた後、彼に取り込まれ、一緒に行く代わりに私を殺すように求めた。しかし、その浅ましい態度に流石の多襄丸も呆れ果て、女を生かすか殺すか夫のお前が決めて良いと私に申し出た。それを聞いた妻は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された私は無念のあまり、妻の短刀で自害した。そして私が死んだ後に何者かが現れ、短刀を引き抜いたが、それは誰かわからないと答える。

 

侍の妻:多襄丸は私を犯した後、夫を殺さずに逃げたという。私は夫を助けようとするが、目の前で多襄丸に身体を許した私に夫は軽蔑の眼差しを向け、その目についに耐えられなくなった私は自らを殺すように夫に懇願した。そのまま気絶してしまい目が覚めると、夫には短刀が刺さって死んでおり、私は後を追って死のうとしたが死ねなかったと証言した。

 

杣売:多襄丸は強姦の後、侍の妻に惚れてしまい夫婦となることを懇願したが、彼女はその申し出を断り夫の縄を解いた。ところが、夫は辱めを受けた妻に対して、武士の妻として自害するように迫った。すると彼女は突然狂ったように笑いだし、男たちの自分勝手な言い分を非難し、夫と多襄丸を殺し合わせる。戦に慣れない2人はへっぴり腰で無様に斬り合い、ようやく多襄丸が夫を殺すに至ったが、その間に妻は逃げていた。

しかし、最終的に自分が現場にあった刀を盗んだことが下人にバレる。

 

 

以上のように、4人が自分の都合のいいように話を歪曲させて述べるのです。

 

信用できない人間と世の中 〜ニヒリズム〜

上で述べたように、四者四様の食い違う証言がこの映画のハイライトになっています。

そして、この様子をニヒリズムであると考えることができます。

それではまず、ニヒリズムの意味を確認しておきましょう。

 

虚無主義。
すべての事象の根底に虚無を見いだし、何物も真に存在せず、また認識もできないとする立場。

ニヒリズムとは - コトバンク

 

上でも述べているように、『羅生門』は舞台を平安時代の乱世と設定し、

人々のすさんだ精神と人間同士が信じ合えなくなっている様を効果的に描いています。

それぞれが自分の虚栄のために真実とはかけ離れたことを述べ、

しまいには人間不信となってしまいます。

 

原作者の芥川龍之介ならびに、監督の黒澤明は

人間の何をしでかすか分からないという曖昧さ、そして虚無さを乱世の平安という時代背景を借用しながら浮き彫りにしたと考えられます。

 

それらを受け入れる人間の寛容さ 〜ヒューマニズム〜

ヒューマニズムとは、

 

人間中心、人間尊重を基調とする思想態度。

ヒューマニズムとは - コトバンク

 

という意味を持っています。

このヒューマニズムという概念を元に考察してみましょう。

 

 

多襄丸、侍、そして侍の妻は自己保身のために虚偽の事実を述べる。

そしてそれを聞いた事件の目撃者、杣売は人間不信になる。

だがしかし、その杣売さえも嘘をついていた。。。

 

映画のラストで、羅生門に放置された赤ん坊を杣売が持って帰ろうとするシーンがある。

「わしのところには子どもが6人いる。しかし、6人育てるも7人育てるも同じ苦労だ」

と杣売は述べるが、旅法師は、虚偽の証言をした杣売を信用せず、咎めた。

しかし、杣売は説得し、旅法師は人間を信用できなくなった自分自身を恥じるのだった。

そして、雨が止み太陽が出たところで二人は羅生門を後にするところで、映画は終わる。

 

法師でありながら、人間を信用できなくなってしまうというところは、それだけ強い人間への不信感を抱いてしまった。

また、酷い場面に遭遇してしまったということが理解できる。

 

加えて、旅法師が自分を恥じ、杣売という人間を受け入れたことから、

旅法師の業の肯定が伺える。

 

業の肯定とは、落語家の立川談志が提唱した理論で、

簡単に説明すると、人間の本質や性質を理解し受け入れなければならないというもので、

それらを発散しなければ、秩序のある世の中で生きることはできない。

よって、人間のしょうもなさ、未熟さ、傲慢さなどは認めるべきだということです。

落語に出でくる人たちは、皆このような性質、すなわち業を持っています。

人間が持つ業を笑いに変えていくことで、業を肯定するのです。

 

少し脱線しましたが、旅法師は最終的に杣売の業を肯定し、

 

全ての人間は長所短所というものを持っているということではなく、

そうした性質を元来持っており、尊重しなければならない。

ということに気付かされたのです。

 

こうしたヒューマニズムもこの映画を考える上で、非常に重要なファクターとなっているのではないでしょうか。

 

 まとめ

『羅生門』はニヒリズムとヒューマニズムというかなりかけ離れた人間に対する考え方を同時に描いています。

しかし、それらが同居してしまうぐらいに、人間というのは難しく単純ではない存在であるというメッセージだと受け取ることができるのではないでしょうか。

そして、このメッセージはいつでもどこでも前景化してしまう問題です。平安の乱世、第二次大戦後、そして国際情勢の揺れる21世紀など、全てに当てはまります。

こうした理由が、再びリメイクとして製作される要因になってるのではないでしょうか。

 

 

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映画『イエスマン”YES”は人生のパスワード』考察! 〜超前向きな生き方!主人公の行動から考えるプランドハップンスタンスセオリー〜 #4

こんにちは!ダイスケです!

今回は様々なレビューサイトで高評価を獲得している映画

イエスマン”YES”は人生のパスワードについて考察していきたいと思います!

 

 

この作品は2008年にアメリカで製作されたコメディ映画で、監督はペイトン・リード、主演は人気コメディ俳優のジム・キャリーです。

ジム・キャリーといえば、代表作として『トゥルーマン・ショー』がありますね!

これについても記事を書いているのでぜひチェックしてみてください!!

 

tamadaisuke.hatenablog.com

 

 

あらすじ

銀行員のカールはいつもいつもプライベートでも仕事でも答えは「NO」と言い、友人との付き合いや様々な勧誘・職場の個人融資の審査などあらゆることを断る生活を送っていた。カールは3年前の離婚を引きずり親友・ピーターが婚約を発表するが喜べず、職場では上司・ノーマンから昇進話がダメになったと伝えられる。そんな中カールは、知人のニックから「“イエスマン”になって人生が変わった。お前も人生を楽しめ」と怪しげなセミナーの冊子を渡される。人との付き合いを断り続けて孤独死する夢を見たカールは将来が不安になり、見学のつもりでセミナーに足を運ぶ。

大勢の参加者がホールに集まる中、ステージに現れた代表・テレンスが初めて参加したカールに目をつけ対面式でイエスマンについて説く。テレンスはカールに、今後決断を迫られた時「イエス」といえば人生がすべて変わると伝える。続けてテレンスは、万が一それ以外の答えを言えば災いが起こると脅かされるカール。その場の雰囲気に押されたカールはイエスの誓いを立てるフリをしてやり過ごす。しかし外に出た直後、ホームレスから車に乗せて欲しいと言われたカールは、そばにニックがいたためつい「イエス」と答えてしまう。

カールは車中でホームレスの男が要求するまま「イエス」と答えるはめになり携帯電話や持ち金のほとんどを渡してしまう。ホームレスを降ろした後ガス欠になり連絡手段もないため数キロメートル離れたガソリンスタンドまでポリタンクを持って歩くカール。イエスマンなんてバカバカしいと思い始めた矢先、ガソリンスタンドでスクーターに乗る若い女性と出会う。置いてきた車の所まで彼女のスクーターに乗せてもらい、話の流れでキスまでしてもらい久しぶりに笑顔が戻る。

その後カールは、ノーマンから休日出勤を頼まれて「イエス」と答えたことで、昇進して給料が上がる。別の日、カールはピーターにこれまでの自分の言動を謝り、イエスマンになったことを伝える。しかしある時隣人からの頼まれ事を断ったカールが、直後に災難に遭うとテレンスの言葉を思い出し考えを改める。カールはこれ以降選択肢には必ず「イエス」と答えるようになり、その後の人生は急展開を迎える。

イエスマン “YES”は人生のパスワード - Wikipedia

 

主人公カールの行動マインド

あらすじにある通り、セミナーを経てカールは全てに「イエス」と答えることなります。

イエス」と答えることでトラブルに巻き込まれたり、何かを失ってしまうのですが、それは一時的なもので、

最終的に見返りが来て、幸せにつながります。

そしてカールはそれまでの憂鬱な生活から脱却することに成功し、幸せを掴むことになります。

 

プランドハップンスタンスセオリーとの類似性

プランドハップンスタンスセオリーとは日本語で「計画的偶発性理論」と訳され、キャリア選択や形成の際によく使われる理論です。

近年の変わりゆく経済状況や国際事情、それに伴う雇用形態の変化によってキャリアは偶然の出来事、予期せぬ出来事に対し、最善を尽くし対応することを積み重ねることで形成されるという前提のもとで作られました。

そして理論は以下のような特徴を持っています。

  • 好奇心(Curiosity):新しい学習機会を模索すること
  • 持続性(Persistence):失敗に屈せず努力をすること
  • 楽観性(Optimism):新しい機会が「必ず実現する」「可能となる」と捉えること
  • 柔軟性(Flexibility):信念、概念、態度、行動を変えること
  • リスク・テイキング(Risk-taking):結果が不確実でも行動を起こすこと

プランドハプンスタンスとは - コトバンク

 

 近頃、学生の積極的なボランティアなどが盛んになっていることもプランドハップンスタンスセオリーへの多大なる共感ということが一つの原因になっているとも考えられるでしょう。

 

話を映画に戻しますと、

主人公カールはこの理論を実践していると言えます。

以下のように当てはめるとお分かりいただけるのではないでしょうか。

  • 好奇心(Curiosity):セミナーに足を運んだ
  • 持続性(Persistence):ガス欠になった後、数キロ歩いてガソリンスタンドに向かった
  • 楽観性(Optimism):休日出勤を受け入れる
  • 柔軟性(Flexibility):ピーターに今までの言動を謝罪する
  • リスク・テイキング(Risk-taking):必ず「イエス」と答えることを決意する

 

まとめ

プランドハップンスタンスセオリーを実践することはもちろんキャリア形成にも大きなメリットをもたらしますが、

普段の生活から実践することで、カールのように幸せを掴むことに成功する可能性も高まります。

ですので、皆さんもプランドハップンスタンスセオリーを日頃から頭に留めて、「イエスマン」を目指しましょう!

 

 

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映画『ラ・ラ・ランド』考察! 〜安全地帯・玉置浩二のワインレッドな音楽人生と重ねて〜 #3

ご無沙汰しています、ダイスケです!!

今回は絶大な評価を得ているミュージカル映画

ラ・ラ・ランドについて考察していきます。

 

ラ・ラ・ランド(字幕版)
 

 

ピアニストの恋愛を描いた映画で、脚本・監督はデミアン・チャゼル、主演はライアン・ゴズリングエマ・ストーンが務め、第89回アカデミー賞では『タイタニック』(1997年)、『イヴの総て』(1950年)に並ぶ史上最多14ノミネート(13部門)を受けました。

 

今回はこの作品を

~売れるか、自分を貫くか~

というテーマで、私の大好きなバンド「安全地帯」、そして玉置浩二さんの音楽人生と絡めて語っていきたいと思います。

 

あらすじ

夢追い人が集まる街、ロサンゼルス。映画スタジオのカフェで働くミア<エマ・ストーン>は女優を目指していたが、何度オーディションを受けても落ちてばかり。ある日、ミアは場末のバーでピアノを弾くセバスチャン<ライアン・ゴズリング>と出会う。彼はいつか自分の店を持ち、本格的なジャズを思う存分演奏したいと願っていた。やがて二人は恋におち、互いの夢を応援し合うが、セバスチャンが生活のために加入したバンドが成功したことから二人の心はすれ違い始める……。

ラ・ラ・ランド - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ | Filmarks映画

 

ミアとセバスチャンの哲学の相違

ふたりの距離が狭まり同棲を始めた頃、セバスチャンはあるジャズバーで旧友キースと再会してバンド加入の誘いを受ける。キースのバンドはジャズにロックやダンスミュージックなどを融合させた斬新な音楽だったため、古き良きジャズを好むセブは違和感を抱く。しかし、自身の店を開くための資金を調達するためバンドに参加することを決意する。ライブを訪れたミアは、バンドの曲がセバスチャンの求める音楽ではないと気付くが、バンドは大成功し、ふたりの生活はすれ違うようになる。

 

要するに、セバスチャンは自分を捨て、売れる(稼ぐ)ために音楽活動をし、ミアはその姿を否定するという構図である。

 

安全地帯、玉置浩二の音楽人生

安全地帯は1982年にデビューした北海道出身のロックバンドで、83年の「ワインレッドの心」、84年の「恋の予感」、85年の「悲しみにさよなら」などヒット曲を80年代に連発しました。

 

ALL TIME BEST

ALL TIME BEST

 

 

 

 

 

ワインレッドの心

ワインレッドの心

 

 

上記の曲のように、 ロックとはいっても歌謡曲や演歌の色が強い曲を世に送り出してきたのが安全地帯と言えます。

しかし、安全地帯はメジャーデビュー前、そして直後はパンクロックやシティロックといったジャンルの曲作りをしており、「うるさい」タイプのバンドだったのです。

ヘビー系のロックバンドだった安全地帯はメジャーデビューを果たしてもなかなか売れません。

というのも、当時の日本の音楽シーンは歌謡曲やアイドルソングばかりでこうしたロックは大衆には全く受け入れられなかったのです。

そうした状況の中で思慮を巡らせた安全地帯はロックの要素と歌謡曲(演歌)の要素を掛け合わせて当バンドの最大のヒット曲「ワインレッドの心」発表し、晴れて売れっ子バンドとなったのです。

しかし、のちに玉置浩二自身は「ワインレッドの心」について

「破滅の始まりだった」

と述懐しています。

 

「ワインレッドの心」がヒットしたあとは、次々と同じ路線の曲を発表し続けます。そしてそれらはヒットを繰り返していきました。

しかしその一方で、彼の中ではこれが本当にやりたい曲なのかと疑念が湧いてきたのです。

 

売れたいのか、自分を貫くのか。大衆に受けたいのか、高い音楽性を目指すのか。

 

この二律背反に引き裂かれた玉置さんは88年に安全地帯の活動休止を発表し、90年代に入ると精神疾患に悩まされることになってしまいます。。。

 

 

まとめ 

演劇界や音楽界、日本かもしくは外国か。ジャンルや国を問わず、成功を掴むということは非常に厳しいです。そうした状況の中で、大衆に寄せるのか、はたまた自分の哲学を貫くのか、この選択を迫られた夢を追う者たちが日々葛藤しているのです。

映画に話を戻しますと、

セバスチャンは回り道をしたけれども、古き良きジャズを演奏するバーを開き成功した。しかし、ミアと最終的に結ばれることはなかったのです。

このように、全ての夢を叶えることの困難さ、何かを諦めなければならないというもどかしさを『ラ・ラ・ランド』は伝えてくれます。

 

 

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映画『トゥルーマン・ショー』考察! 〜監視、生中継され続ける世界のディストピア論〜 #2

今回は名コメディー俳優ジム・キャリー主演の名作

トゥルーマン・ショーについて考察していきます。

 

トゥルーマン・ショー (字幕版)
 

 

 

あらすじ

離島・シーヘブンで、保険会社に勤めるトゥルーマン・バーバンク(ジム・キャリー)は、「おはよう! そして会えない時のために、こんにちはとこんばんは!おやすみ!」が口癖の明るい青年である。彼は生まれてから1度も島から出たことがなかった。それは、父と一緒に海でボートを漕いでいたときに「嵐が来るぞ」という父の警告を無視して船を進め、嵐を回避できず海に投げ出された父親を亡くしたことで、水恐怖症を患ってしまったためであった。

ある日、彼がいつものように新聞を買ったあと、雑踏の中ひとりのホームレスの老人とすれ違う。それは幼い頃、海に沈み亡くなったはずの父親だった。しかしその直後、老人は瞬く間に何者かに連れ去られてしまう。彼はこの出来事をきっかけに、自分の周囲を不審に感じ始める。

実は、トゥルーマンは生まれたときから人生の全てを24時間撮影されていた。彼はアメリカ合衆国民ですらなく、彼の人生は全てそのままリアリティ番組『トゥルーマン・ショー』として世界220か国に放送されていた。彼の住む街は万里の長城に匹敵するドーム内に作られた巨大なセットで、太陽や月、星々も機械仕掛けの照明装置に過ぎず、雨や雷鳴などの気象も人為的なものであり、そして何よりトゥルーマン以外の人物は全て俳優なのであった。もちろん死んでしまったという父も本当の父ではなく俳優であり、父親役の俳優は実際は死んでおらず、のちに感動の再会を果たすことになる。

この番組ではCMは入らず、番組中で商品の宣伝が行われている、いわゆるプロダクトプレイスメントである。例えばトゥルーマンの親友マーロン(ノア・エメリッヒ)は、いつも缶ビールをカメラに向けてビールを宣伝している(もちろんこれは自然な形で行われておりトゥルーマンは気付いていない)。トゥルーマンの妻メリル(ローラ・リニー)も、草刈機や万能ナイフなどを日常会話の中でさりげなく宣伝していたが、あるとき不自然にココアの宣伝をしてしまう(「新製品のこの『モココア』をお試しあれ。ニカラグアの大地で取れた天然のカカオ豆を使ってて最高の味よ。人工甘味料は入ってないわ。」と、日常会話としては非常に不自然で話がかみ合っていなかった)。これを聞いたトゥルーマンは、周囲への疑いをさらに深めていく。

そんな妻との乾いた生活の一方で、トゥルーマンは学生時代に出会ったローレンという女性のことが忘れられないでいた。当時ローレンは、虚偽の世界に生きる彼を思い、「ローレン」とは役名で本名はシルヴィアであるということ、そしてこの世界が全て偽りであることを伝えようする。しかし「シルヴィアの父」を名乗る何者かによって阻止され連れ去られてしまう。「島を出るのよ!私を探して!」。ローレンのこの言葉を最後に、それ以降トゥルーマンと会うことはなかった。

自分の世界に疑念を深めたトゥルーマンは妻の働く病院に忍び込むが、そこでは素人同然の医師たちによる手術が行われていた。医者も偽物なのだと気づいたトゥルーマンは妻を連れて島からの脱出を考え、ローレンがいるというフィジー島へ行こうとする。だが、不可解なトラブルが続発して島の外に行く事ができず、さらに会ったことのない人間から「やあ、トゥルーマン」と呼ばれて混乱に陥る。脱出に失敗し落ち込むトゥルーマンを慰めようと、マーロンが死んだはずの父との再会を演出する。テレビの前の視聴者達は感動に涙するが、トゥルーマンはそのわざとらしさから島が作り物の世界であることを確信する。

やがてトゥルーマンはカメラの目を盗んで自宅の地下室から脱走し、ボートに乗り込んで島の外へと漕ぎ出す。トゥルーマンの行動に気づいた番組プロデューサー・クリストフは、トゥルーマンを救おうとするシルヴィアの制止を振り切って、トゥルーマンを嵐の中に放り込む。水恐怖症を克服して世界の端まで向かうトゥルーマンを、視聴者達はかたずを呑んで見守る。

ついに世界の端にある扉にたどり着いたトゥルーマンに、放送室にいるクリストフはマイクを使って話しかける。生まれたときからトゥルーマンを見続けてきたクリストフは、トゥルーマンを我が子のように考えていた。トゥルーマンは知らない世界に足を踏み出すことはできないだろうと確信しているクリストフは、「君はテレビのスターなんだ、何か言えよ!」と言う。するとトゥルーマンは突然カメラに向かって笑顔を見せ、いつもの調子で「会えない時のために、こんにちはとこんばんは!」と言い放つ。唖然とするクリストフを尻目に、トゥルーマンはセットの外の世界へと踏み出し、画面から去っていく

視聴者たちは『トゥルーマン・ショー』のエンディングに拍手を送った後、「次の番組はなんだ?」とチャンネルを切り替える。

トゥルーマン・ショー - Wikipedia 

 

それでは、この作品を「ディストピア」というテーマで考察していきたいと思います。 

まずディストピアの特徴について簡単に触れて置くと、

・全体主義的または管理社会

・人間の理性の限界に対する風刺

ということがあげられます。

ディストピア - Wikipedia

考察① 監視社会

トゥルーマンが住む「シーヘブン」は全てがセットであり、彼のありのままの生活を全世界に中継するためにカメラがあらゆる場所に設置されている。そこでの人々や自然や気候も全てセットであり、プロデューサーの意のままに動くので、偶発的な出来事などは絶対に起こらず100%安全な世界である。しかしながら、この世界には大きなデメリットが存在する。まず、シーヘブンで生活するトゥルーマンには事実上、全くの自由が許されていない。人間は基本的に他者や周りの環境によって行動を決定している。私自身も家族や友達などの他人と常に密接に関わっていきているし、大学という環境で時間を過ごしており、それらに依存した状態の中で生きている。また、私たちがいる実際の世界は、様々な考えを持つ人間がいて、様々な環境が存在し、そうしたカオスな状況で生活することで、成長し、人格などが形成されるのだ。しかし、シーヘブンの住人たちはみな番組で用意された演者であり、学校や職場なども全て番組側で操作されているのだ。いわばシーヘブンは全て番組の思惑通りの秩序しかない予定調和的な世界なのだ。よって、トゥルーマンが自身の意思で行動していると思っていても実際は番組に全て操られており、人権が気づかないうちに剥奪されていると言える。これは果たして安全で健全な社会と言えるのでしょうか。

 

考察② 神になる人間

次に、シーヘブンを全権的に操る番組プロデューサー、クリストフについて考察していきたい。現在私たちが暮らしている世界は、自然の摂理や神の力によって動いており、そこには誰の意思も介在していない(と私は考えている)。なので、気候はどうやっても変わらないし、地震や台風などの災害も起こってしまう。しかし、シーヘブンは全てクリストフ次第の世界である。当然ながら人間に不利益が被らないように、彼は基本的に安全な世界を提供している。人間には逐一行動を指示し、車にも常に指示し、さらには太陽と月の出方、雨の降り方と場所など全てを操作している。だが、映画の最終盤で、トゥルーマンが島から脱出を試みた際、嵐と雷雨、そして津波を起こさせ、彼を海上で殺そうとした。やはり、人間による世界の支配は不可能なのだ。人間が支配すると暴走してしまう可能性があり、そうなった場合はその世界は崩壊してしまう。これは自然の役割を人間が担ってはいけないというアンチテーゼだと解釈でき、近年の急激で過剰な科学技術の進歩(AIやロボット)に対する批判だとも解釈できるのではないだろうか。

 

まとめ

『トゥルーマン・ショー』はジム・キャリーのコミカルな演技のおかげで子供でも楽しめる面白い映画になっている。しかし、取り扱っている問題は非常にシリアスで我々は本当に考えさせられる。結果的に老若男女、映画を娯楽として見たい人、私のようにもっと踏み込んで分析したい人を問わず有益な映画となっている。

 

 

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